臨床心理士報

第25巻 巻頭言gakucyo
「徳育」について思うこと

山形大学学長・元文部科学事務次官
結城章夫

5年ほど前から,日本臨床心理士資格認定協会に設けられた「認証評価委員会」の委員を務めております。臨床心理士養成のための専門職大学院の認証評 価を行う仕事ですが,臨床心理士ということで私が先ず思い出すのは,亡くなられた河合隼雄先生のことです。河合先生が文化庁長官だった時に,私は,文部科学事務次官として一緒に仕事をさせて頂きました。河合先生は,いつもニコニコとされており,誰をも包み込むような不思議な力を持った偉大な方でした。「僕 はチョウカンと呼ばれているけど,僕の奥様はユウカン夫人だよ」というような冗談を言って周りを笑わせていました。60歳からフルートを始めたというこ とで,文化庁の若い職員を誘って,省内でしばしばコンサートを開催されていました。

河合先生は,永く日本心理臨床学会の理事長・日本臨床心理士会会長を務められ,臨床心理士の社会的地位の確立に大きな貢献をされたとお聞きしています。臨 床心理士の国家資格化にも,情熱を燃やされていたと承知しています。私が尊敬する河合先生が育ててこられた臨床心理士に係わる仕事に携わらせて頂けるの は,私にとって大変に光栄なことであり,また,嬉しいことだと思っています。

教育の基本的な目標は,知・徳・体の調和ある育成であると言われています。頭脳を鍛える知育,心を磨く徳育,そして体を鍛え健康を保持する体育の三つをバ ランスよく実施してはじめて人格の完成に至り,教育の目的が達成されるということだと思っています。これはいつの時代にも変わらない,教育の大原則です。

日本の教育の現状を見てみると,「知育」については,知識偏重だとか詰め込みだとかの批判はありますが,日本の学校教育は,伝統的に優れた成果を達成して きています。「体育」についても,生活パターンの変化や食の偏りなどによって昭和60年頃をピークにして子どもの体力が低下し,心配されておりましたが, 最近では改善の兆しが出てきているようです。

今の日本の教育で最も多くの課題を抱え,深刻な状況にあるのは,「徳育」です。いじめ,不登校,引きこもりの多発,社会のルールを守る規範意識の欠如,ものごとに挑戦する意欲の低下,自分に対する自信の無さなど,日本の子どもの心が病んでいるのです。

日本の戦後教育では,一時期,学校で道徳を教えることがタブーとされた時代がありました。昭和30年代中頃からは,小中学校で週一回の「道徳の時間」が設 けられましたが,今になっても道徳の授業が定着していないのが実状です。「道徳の時間」では,用いる教材も定まっていませんし,先生方も何をどう教えたら よいのか,迷っておられるように見えます。今の現職の先生方も,戦後教育で育ってきていますので,道徳をきちんと教えられたという記憶がなく,自信を持っ て子どもたちに道徳を教えられないという状況が続いているのです。

一年前に発足した安倍内閣は,「教育再生」を政権の重要課題の一つに据えています。総理大臣官邸で開催される「教育再生実行会議」からは,「道徳の時間」 を教科に格上げする(道徳の教科化)との提言が出されました。文部科学省では,それを具体化するための検討が開始されています。道徳の教科化は,学校での 道徳教育を充実させるための大きな前進だと思いますが,そこでどういう徳目を子どもたちの身に着けさせるのか,それをどんな教材を用いて,どのように教え ていくのかがこれからの大きな問題です。

振り返ってみると,日本には良き伝統と優れた文化が数多く存在しています。例えば,華道,茶道,書道,柔道,剣道などの「道」の字がつくもの,和歌のわ び・さびの世界,芭蕉が求めた風雅の心,能,歌舞伎,文楽などの伝統的な舞台芸術は,日本の長い歴史の中で磨き抜かれ,鍛え上げられてきたものです。これ らの伝統文化は,日本が世界に誇れるすばらしいものであると思います。このような優れたものを学校教育の中できちんと取り上げていけば,日本の伝統文化を 次世代に継承できると同時に,子どもたちの道徳心も磨かれていくのではないでしょうか。

平成24年度から中学校で武道が必修になりました。これも一歩前進ですが,それだけでは十分ではないように思います。学校での道徳の授業に,今以上に日本 の良き伝統と優れた文化を取り込んでいくことが必要だと思っています。このことは,グローバル化する国際社会の中で生きていかなければならないこれからの 世代が,日本人としてのアイデンティティを確立するためにも大いに役立つことだと考えます。

もう一つの大きな問題は,現場の教員の方々が道徳教育を行う訓練を十分に受けていないということです。現職教員に対する研修や再教育を行うとともに,大学 の教員養成課程において,次の世代の教員を目指す学生に道徳の教育方法をしっかりと教育することが重要な課題だと考えます。

徳育では,小学校に入る前の乳幼児期の教育が決定的に重要です。乳幼児期の教育で中心的な役割を担う家庭教育のほうにも大きな課題があると思っています。 最近の若いお母さんは,携帯電話でメールを打ちながら赤ちゃんに授乳しているとの話を聞きました。授乳の時には,赤ちゃんとしっかりアイコンタクトをし て,優しく話しかけてもらいたいものだと思います。今子育てをしている若いお父さんやお母さん方に対して政策的な支援の手を差し伸べることも,重要な課題 なのではないでしょうか。

日本臨床心理士資格認定協会が発足し,臨床心理士の第1号が誕生したのは,今から25年前の昭和63年だとお聞きしています。その後の四半世紀の歴史の中 で,2万6000人余りの方々が臨床心理士の資格を取得されました。臨床心理士の方々は,今や,学校,企業,福祉・医療の現場など社会のさまざまな場所で 幅広く活躍をされています。大学院修士レベルの教育を受けた「心の専門家」として,社会の中で尊敬される存在となっています。
臨床心理士の歴史の初め頃は,日本であまりなじみがない新しいタイプの専門家であるため,社会的な認知が進まない時代があったとお聞きします。今日,臨床 心理士が社会の中で確固たる地位を築いておられるのは,河合隼雄先生をはじめとする先達や,初期の臨床心理士の方々の血のにじむようなご尽力の賜物であ り,これらの方々に心から敬意を表したいと思います。

わが国の徳育を早急に立て直す必要があり,今,そのためのさまざまな対策が取られようとしています。家庭教育や学校教育の改善が進んでいくことでしょう が,それでも心の問題を抱える児童・生徒,学生,社会人,市民がいなくなることはありえません。社会の複雑化により,生きることが困難な時代になってお り,心の問題を抱える人々は,益々増えてきています。このような人々に対処し支援するためには,心についての専門的な知識を持ち,臨床経験を積んだ専門家 の存在が必要不可欠です。これからも,臨床心理士の皆様が「心の専門家」として,このような人々の救済に当たっていかれることを心から期待しています。